
「地域の人と地域の資源で、いのちある「家具や建築」をつくる。」100BANCH実験報告会
「身の回りにあるものがすべて、宝の山に見えるんです。竹林を見ると『竹がいくらでも使えるじゃん』と思いますし、そこら辺に転がっている石を見ても、『これで何か面白いことができるんじゃないか』と考えます。」
そう語るのは、土地にある素材と、そこに暮らす人々の力を生かして建築をつくる、Studio on_site代表の大野宏。
大野は2024年2月にGARAGE Program 78期生「OKINA」として100BANCHに入居し、竹を簡単につなぐ接合金物「OKINA」の普及に取り組みました。地域の竹を使って家具やテントをつくり、使い終えた素材を土地へ戻す。そんな資源循環を目指す活動の背景には、東日本大震災やフィリピンの被災地での経験があったといいます。
現地の人々に助けられながら建築をつくった日々、石の形から発想した大阪・関西万博での建築、そして再びフィリピンへ向かおうとする理由。これまで歩んできた道のりと、その先に見据える挑戦について、聞きました。
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大野宏|特定非営利活動法人Studio on_site 代表 土地の人と素材と技術で建築をつくる建築家。COVID-19以前は、発展途上国の貧困地域等で活動をしてきた。2025年に開催の大阪・関西万博では、残念石を活用したトイレ施設「地球の形跡」を共同設計した。 |
——土地にあるものと、そこにいる人たちで建築をつくる。NPO法人Studio on_site 代表・大野宏の現在の活動につながる原点は、大学入学直前に起きた東日本大震災での経験にありました。

大野:Studio on_site の大野です。Studio on_site は、日本語にすると「敷地の上の設計室」という意味で、建築の設計と施工を手掛けてます。名前の通り、現場に立ちながら、地域の人たちと一緒に、現地にあるもので建築をつくる活動を普段からおこなっています。100BANCHには「OKINA」というプロジェクトで入居しました。竹と竹をつなぐジョイントのようなものを制作していて、それをどうやって普及させていくかを考えていたときに、僕らは関西が拠点なので、関東にもつながりをつくりたいと思い100BANCHに応募しました。

大野:2011年3月に東日本大震災が起こりましたが、僕はその直後の4月に大学へ入学し、建築学科に入りました。震災によって道路が寸断され、建築資材を運べない状況の中、大学の先生が「現地に竹があるから、竹で建築をつくろう」とスタートしたのが「竹の会所」というプロジェクトでした。

大野:当時は大学1年生で、建築とは何なのかもよくわからないまま参加しました。被災地に金髪で行って、初日に怒られるという経験もしたのですが、先輩たちに教えてもらいながら竹の建築をつくりました。そこで、現地にあるものとそこに集まった人たちで、こんなに素晴らしい建築ができるんだ、と実感しました。これが、僕が建築を学ぶはじまりでした。
——大学4年生になる頃、大野は台風で大きな被害を受けたフィリピン・レイテ島のタクロバンへ。そこで出会ったのは、被災から立ち上がり、自分たちの手で暮らしを取り戻していく人々の姿でした。
大野:大学4年生になる頃、フィリピンのレイテ島にあるタクロバンという地域へ行きました。台風による高潮で街が流され、東日本大震災の被災地で見たように、船が陸地に乗り上げている風景が広がっていました。ちょうど卒業設計の時期だったので、「ここで卒業設計をしよう」と考えて、被災したスラム街で現地の人たちと一緒に建物を建てました。これが、僕が自主的に取り組んだ最初のプロジェクトです。ただ、大学4年生の日本人が海外の被災地、それもスラム街に行って家を建てようとしても、何もできなかったんです。
僕が困っていると、近所のおばちゃんたちが集まってきて、重い荷物を運びはじめてくれました。すると子どもたちも手伝ってくれて、大人の大工さんたちも集まってくる。そうして、ようやく1つの建物ができました。被災地へ助けに行ったつもりが、逆に助けられて建物が完成した、という経験でした。

大野:僕が行った頃には被災から半年以上が経っていたのですが、現地の人たちの生きる力がすごかったんです。すでに自分たちで掘っ立て小屋のような家を建て直していて、穴が空いて空が見えるような家でも、そこに住みながらみんなでわいわい暮らしている。「この人たちみたいな力があれば、何もなくても生きていけるし、コミュニティ自体が豊かなんだ」と感じました。

大野:ただ、自分自身は何もできずに助けられてしまったので、「建築家として、ちゃんとプロにならないといけない」と思いました。それで、手仕事を生かした建築で世界的に知られるインドのStudio Mumbai でインターンを経験し、その後アフリカでも、道端にいる人たちとものづくりをしながら、1年半くらい修行しました。
——修行を経て再びタクロバンへ戻った大野が目にしたのは、政府主導で進められる復興住宅への移住でした。
大野:修行をして、現地の人たちとどうやったら一緒に建築をつくれるのか、その感覚が少しわかるようになったので、もう一度タクロバンへ戻りました。その頃、政府は海沿いの貧困地域に住んでいた人たちを、バスで30〜40分ほど離れた場所に建てた復興住宅へ移住させる計画を進めていました。高潮が来たら危険なので、安全な場所へ移す。よく言えば復興ですが、悪く言えば強制移住ともいえる状況です。一方で、元々の街は住民たち自身の力ですごいスピードで復興していました。数年経つと、「どこが被災したんだろう」と思うくらい暮らしが戻っていたんです。

大野:僕は、住民たちが自分で復興した地域と、新しくつくられた復興住宅の両方に住みながら活動していました。自力で復興した地域にいると、ものすごく話しかけられるんです。「飯を食え、食え」と言われて、食べすぎてしんどくなるほどでした。でも復興住宅のほうへ行くと、誰も話しかけてくれない。何が違うんだろうと考えると、復興住宅では、元々いた地域から離され、コミュニティもシャッフルされ、家の並びも変わっていました。道路幅も広く、日陰が少ないので外に出にくい。安全性は得られたけれど、そこにあった多様性やコミュニティのようなものは失われてしまったんじゃないか。「本当にこういう復興の仕方でいいのかな」と疑問を持ちました。
そこで復興住宅の空きスペースを借りて、「自分たちの手で、自分たちの場所をつくろう」と、子どもたちや大人たちと一緒に竹を切り、建物をつくりました。僕らの活動は、ただ建物を建てればいいというものではありません。コミュニティと建築がどう一緒に存在できるのか、ということを考えながら建築をしています。

——コロナ禍でフィリピンへ戻れなくなった大野は、日本での活動を展開。その土地にある素材を使った建築の仕事が増えていく一方、身の回りのものを生かした遊びから「のせもの建築」と「OKINA」という2つのプロジェクトが生まれました。
大野:コロナ禍になり、フィリピンに戻れなくなりました。それまでの活動を見てくれていた方々から、「同じようなコンセプトでやってくれないか」とご依頼をいただくようになり、日本でも建築の活動をするようになりました。例えば滋賀県であれば葦を使った空間をつくったり、森の中で近くにある素材と人を巻き込んで空間をつくったり、蔵を解体した際に出た土を使って室内空間をつくったりしています。

大野:そうした中、コロナ禍に「やることがなくて暇だな」と思いながら遊んでいたところから生まれたのが、「のせもの家具」と「OKINA」です。一緒に活動している新工芸舎さんとは似ている部分があり、身の回りにあるものがすべて、宝の山に見えるんです。竹林を見ると「竹がいくらでも使えるじゃん」と思いますし、そこら辺に転がっている石を見ても、「これで何か面白いことができるんじゃないか」と考える。そんな風に日常の中で遊びながら、色々なものを試作していました。

大野:のせものは、新工芸舎さんが欠けた歯の治療から思いついたもので、自然の石をスキャンしてデータ化し、その形状を反転させたジョイントを3Dプリントすれば、石を削ることなく、その形にぴったり合う部材をつれます。新工芸舎さんはこの技術でプロダクトを制作しています。建築畑である私は日本の伝統的な大工技術である「ひかり付け」の現代のバージョンとして、この技術で家具や建築をつくれるのではないかと考えました。僕ら建築家は普通、自分たちがつくりたいものを考えてから、そこに材料を当てはめていきます。しかし、のせものでのアプローチははまったく逆です。「この石がこういう表情をしているから、こう並べなければいけない」と、素材のほうから建築のあり方を考えていきました。

大野:そこから発展したものが、大阪・関西万博で共同設計したトイレ施設「地球の形跡」です。「残念石」と呼ばれる、大阪城の石垣に使うために切り出されたものの運ばれなかった石を、約400年越しに大阪へ運び、その石の上に屋根を掛けました。海外を旅する中で、自然の空間に行くと「これは到底、人間にはつくれないな」と感じることがあります。それなら、自然の石の上に屋根だけを掛けることで、人間が一からつくる以上の空間が生まれるのではないか。そんなことを考えながらつくっていました。

——「のせもの」と同じ時期に生まれたのが、竹専用の接合金物「OKINA」。一本一本太さの違う竹を簡単につなげられる仕組みは、家具やテントから大規模な建築まで用途を広げ、地域資源の循環を生み出しています。
大野:工事現場で使われる単管パイプは直径が同じなので、1種類のジョイントで接続できます。しかし、竹は一本一本太さが異なります。直径が2mm違うだけでも、同じジョイントでは抜けてしまいます。OKINAは、ホースなどを締めるようなバンドを竹に取り付けることで、竹同士を固定できる仕組みです。竹の太さが違っていても使うことができます。

大野:僕らが掲げているコンセプトは、「竹林をもう一度“宝の山”に」です。僕ら自身は竹林を見ると、「これ全部使えるじゃん」と思うんですが、その感覚を一般の方々とも共有できないかと考えました。放置竹林を整備しながら竹を切り出して、イベントなどで使う。イベントが終わったら解体して、竹を炭にして農地へ戻す。地域の中で資源を循環させていくための道具としてOKINAがあります。

大野:ジョイントは基本的に3種類あり、ローテーブルのような小さなものから、棚やテント、イベントブース、シェルター、パビリオンのような大きな空間までつくることができます。比較的、誰でも簡単に使えるのも特徴で、100BANCHのナナナナ祭では、お茶のプロジェクト「Tateru」が「自分たちでテントをつくりたい」と言って、自分たちで設計し、自分たちで建てるということも起こりました。

大野:また、「放置竹林を宝の山へ」というテーマの背景には2011年の東日本大震災での経験があります。竹は災害時にもとても有効だと思っています。日本全国の様々な場所にあるので、災害が起きたときにOKINAだけ持って行けば、現地で竹を切り出して、体育館の間仕切りをつくったり、仮設テントを建てたりすることができる。全国各地にOKINAを使えるチームがあれば、どこかで災害が起きたときに、その地域の人たちと一緒に竹を切って、必要な空間をつくることができます。中学校や小学校でも、放置竹林を整備しながらテントなどをつくる教育活動をおこなっています。

大野:最近では、「第43回全国都市緑化フェアin京都丹波」でOKINAを使い、大きな竹の空間を5棟つくらせてもらいました。そこで使った竹も、地域の放置竹林を整備して切り出したものです。会期を終えたら解体し、市の事業で炭にして、最終的には農地などへ戻していく。放置竹林の整備から、建築として使い、最後にまた地域へ返すところまでを循環させながら取り組んでいます。

——フィリピンの被災地からはじまり、日本各地でのプロジェクト、そして大阪・関西万博へ。活動の規模が広がった今、大野は再び自らの原点へ戻ろうとしています。
大野:僕は元々フィリピンで活動していて、コロナ禍をきっかけに日本で活動するようになり、その後、大阪・関西万博の建築を手掛けることになりました。気づけばフィリピンのスラム街から日本社会のど真ん中に放り込まれて「何だここは」と思いながら活動してきました。ずっとフィリピンへ戻ろうと思っていたのですが、面白いプロジェクトに声をかけていただき、活動を続けてきました。ようやく少し体が空いてきたので、もう一度フィリピンへ戻ろうと思っています。

最近すごく感じているのは、事業でお金を稼げるようになると、「世の中から認められている」「世の中から求められているものをつくっている」という実感が得られることです。でも、世の中の人たちが求めているものをつくっているということは、人の想像を超えていないのではないか、とも思うんです。それが、自分の中ではあまり面白いとは思っていません。
だからこそもう一度、フィリピンの貧困地域で、対価を受け取らずに何かをやり続けるような活動に戻れたらと思っています。そこで、復興住宅のような場所をどのようにしたら、以前スラム街で感じたようなコミュニティや、人間らしい暮らしがある場所にしていけるのか。あらためて取り組んでみたいです。